衆生救い極楽行きを助ける 粉河寺 忌明地蔵菩薩 和歌山県紀の川市

風猛山粉河寺(ふうもうざんこかわでら)は天台宗系の粉河観音宗の寺です。「粉河寺縁起絵巻」(国宝)に伝える説話によれば、紀伊国の猟師、大伴孔子古(おおとものくじこ)が宝亀元(770)年のある日、山中に霊光するところを見て、ここが霊地と思い、小さな庵を建立したというのが粉河寺の始まりです。

 後に孔子古が建てた小堂に童男大士(どうなんたいし)が訪ね、七日間、堂に籠もって仏像を刻みました。これを孔子古に与え、翌日、童男大士が去ると、仏像は金色に輝く観音菩薩となりました。童男大士こそ観音の化身と思い、以後、殺生をやめて供養礼拝したという伝承が創始譚(たん)に伝えられています。

 粉河寺は中世、広大な荘園を持ち僧兵を擁しましたが、天正13(1585)年に、豊臣秀吉による紀州征伐にあい、全山を焼失しました。

 本堂の東側、やや離れた場所に薬師堂があり、その西側に石仏地蔵菩薩立像があります。砂岩を石材として造られ、舟形光背の高さは約2・2メートル、幅約80センチ、円光背上部の月輪(がちりん)内に種子を刻み、像高約1・57メートルの長身立像を厚肉彫りしています。左手に宝珠、右手に錫杖を持たれ、杖(つえ)に「サクタラウサエモン四十九ノトキ」と陰刻、光背左下部には「永禄七(1564)年卯月日本願権大僧都□□」とあります。

 この地蔵を「忌明(いみあけ)地蔵」と称します。死者を出した親族らは一定期間喪に服し、家に籠もって身を慎むという一般的な習俗であり、その忌日を三五日や四九日とし、亡魂(ぼうこん)が彷徨わないように、出歩かない習慣があります。今でも忌明けに法要を営み、追善供養を済ませたあと、地蔵に参るといいます。このように地蔵菩薩は、衆生を救い極楽に行けるように援助してくださり、広く信仰されてきた仏なのです。
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